「廃仏毀釈」から寺を護った無学禅師の経歴とその生涯 その3

樹王軒無学禅師 頌徳碑 無学禅師
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「廃仏毀釈」から仏教と寺院を護った禅僧

樹王軒無学禅師 頌徳碑
キリスト教信徒の国教説から守る策として、新しい国には新しい宗教が必要であるとの明治維新政府が国家神道を推進する「神仏分離令」を明治元年(1868)3月発令した。

「神仏分離」政策とは、神社から仏教的な要素を排除しようとしました。
仏像を神体としている神社は仏像を取り払うこと、本地仏、鰐口、梵鐘の取外しなどを命じました。

薩長連合による明治維新政府の狙いは新政府の政策の一つ、富国強兵策を強固に推し進めるための一元主義に忠実になってくれる臣民洗脳が目的のようであった。

新政府の思惑通りに、民衆が神仏分離令を「神社から仏教的な要素を排除」ではなく「寺を廃し仏像は破壊せよ」と誤解する者や拡大解釈する者もあらわれ寺を襲撃する「廃仏毀釈」運動へとつながったようだ。

無学禅師は現住所の福岡県久留米市の古刹、臨済宗妙心寺派「梅林寺」の護寺に、また仏教を守ることに尽力したと伝えられている。

引用元:無学禅師「文奕無学」

また、生誕地である岐阜県美濃市神洞 臨済宗妙心寺派 江昌寺(こうしょうじ)には頌徳(しょうとく)碑(功績をほめたたえた石碑)が建立されている。
樹王軒無学禅師 頌徳碑

西暦 和暦 将軍 世相と無学禅師歴 年齢
1817
1818 文政 01
1819 文政 02 出生 8月1日
1820 文政 03
1821 文政 04
1822 文政 05
1823 文政 06
1824 文政 07 武井家養子 6才
1825 文政 08
1826 文政 09 清泰寺/得度 8才
1827 文政 10
1828 文政 11
1829 文政 12
1830 天保 01
1831 天保 02
1832 天保 03
1833 天保 04
1834 天保 05 大雲寺に掛錫 16才
1835 天保 06
1836 天保 07
1837 天保 08 12家慶 大阪に遊化 19才
1838 天保 09 国清寺・備前 20才
1839 天保 10 出雲・豁陰和尚に痛棒 21才
1840 天保 11 大照院/長門 22才
1841 天保 12 江戸に/佐藤一斉に儒教を学ぶ 23才
1842 天保 13
1843 天保 14
1844 弘化 01
1845 弘化 02
1846 弘化 03
1847 弘化 04 備前/曹源寺へ 29才
1848 嘉永 01 筑後の梅林寺へ 30才
1849 嘉永 02
1850 嘉永 03
1851 嘉永 04
1852 嘉永 05
1853 嘉永 06 13家定
1854 安政 01
1855 安政 02
1856 安政 03
1857 安政 04
1858 安政 05 14家茂
1859 安政 06 万延 01
1860 文久 01
1861 文久 02
1862 文久 03
1863 元治 01
1864 慶応 01
1865 慶応 02 15慶喜 梅林寺/法席となる 47才
1866 慶応 03
1867 慶応 04/9-7
1867 明治 01/9-8
1868 明治 02 寺院・神社を分離する「神仏判然令」発令
1869 明治 03
1870 明治 04
1871 明治 05
1872 明治 06
1873 明治 07 妙心寺派2代管長就任 55才
1874 明治 08 東京大教院禅宗大教校の校長 ↓ 56才
1875 明治 09 禅宗九派管長 權大教正に ↓ 57才
1876 明治 10 ↓
1877 明治 11 妙心寺管長を辞任 大教正に 59才
1878 明治 12
1879 明治 13
1880 明治 14
1881 明治 15
1882 明治 16
1883 明治 17 尾張犬山瑞泉寺に 65才
1884 明治 18 妙心寺派5代管長就任 66才
1885 明治 19 ↓   
1886 明治 20 ↓   
1887 明治 21 ↓   
1888 明治 22 妙心寺管長を辞任 70才
1889 明治 23
1890 明治 24
1891 明治 25
1892 明治 26
1893 明治 27
1894 明治 28 妙心寺管長に就く 76才
1895 明治 29 ↓   
1896 明治 30 ↓   
1897 明治 31 妙心寺方丈にて示寂す/12月31日 79才(数え年80才?)

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