現在の岐阜県美濃市長瀬にあった。風光明媚な板取川に面し、5月末ごろから始まるアユの友釣りの盛んなエリアとしても有名である。
昨今では、板取川水系の河原において、キャンプをする人も多く見かける。
無学禅師の幼少時養われた武井家とは
武井助右衛門七代目は江戸時代中期の美濃国の代表的商人といわれた人物です。
武井家は長瀬村に住み、代々助右衛門と称した高持百姓(田畑・屋敷を持ち、年貢・諸役の負担者として検地帳に登録された農民)で頭分の家柄でしたが、次第に衰え、紙舟一艘を持ち、紙漉きをも営む農家でした。
文政年間、七代目に至って、紙商人として台頭し豪商といわれるようになった原因は、尾張藩御用紙請負の成功でした。
武井家発展への背景
文政八年(西暦1825年)、尾張藩は当時の通貨、銀に換える銀札(紙幣)の発行を画し、
その紙幣用紙を領内の紙の主産地である上有知の代官に命じました。
代官は安毛村(あたげ・むら)の紙商人たちに尋ねたが、いずれも断られた。
その理由は時期が5月であり紙の生産期でなかったこと、用紙は黄赤の色付きの漉き慣れないものであり、しかも宝の字のすかし入りという生産的・技術的に難しいものでした。
千歳一隅の転機
それを聞いた助右衛門は上有知(かみうち)の紙商人と相談して請け負いを願い出て、
まず、神洞村の職人に見本紙を漉かせ、いくつかの色合いの紙を差し出しました。
尾張藩はそれをもとに評議を重ね、値段の引き合いも出して、遂に請負は成立しました。
助右衛門は、納期の11月までに大量の紙を生産するには、従来の個々の家で漉かせていては不可能であると判断し、一ヶ所に集中して漉く方法を思いつきました。
「御用紙御漉家」の建設です。
狭い漉屋に紙舟一艘だけの従来の紙漉作業と比べて、画期的な施設であり、ここに20数人の人が集まり紙を生産しました。
これは、家内制手工業から工業の近代化を一歩進めた工場制手工業の実施でした。
こうして5月に漉き始めて、11月の期限内に納入を成功させました。
このように、七代目助右衛門はたくましい企業家精神と実行力、先見性を持っていた人物でしたが、
この事業の成功によって紙商人としての立場を固め飛躍しました。
その後、武井家は、八代目が紙のほかに生糸、金融まで経営を広げ、ますます拡大しました。
さらに、十代目は美濃紙の輸出、抄紙試験場の設立により、牧谷製紙業界の大革新、大躍進に貢献しました。
【引用:美濃百話】