無学禅師が生まれ育った場所
無学少年の生まれは、西暦1819年文政2年江戸時代後期 徳川幕府11代目家斉の時代である。
そのころ山田家は庄屋であったと聞く、少ない農地と紙すきが主な当地、岐阜県武儀郡下牧村神洞(かんぼら)であったようだ。
現在、当地は空き家になり廃屋のみが残っているが、無学禅師生誕地 雑草刈り取り後はこのように広々しています。
村が見下ろせる小高い山懐にその建屋はあった。
廃屋と庭の現状は
住人が不在になって10余年となり、庭の手入れするにも手が届かず荒れ放題ですが、近隣の縁者が手入れなど定期的に行っているようです。
当地の周辺では、庭の西側にお地蔵さんが安置されている。もちろん東向きである。
台座の高さ50cm~60cmくらい、縦横ともに70cmくらいの大きな石の上に背丈60cmくらいのお地蔵さまが鎮座していらっしゃるのである。
美濃の牧谷方面で仏教徒(禅宗のお家が多い)のお家には、庭先にお地蔵さんが鎮座している。伝え聞くところによれば、無学禅師がお地蔵さんの設置を説いて回ったといわれているが確証はありません。
裏から見た廃屋の姿は
悲しい姿に変わってしまいました。大雪の降った年に庇の強度が耐えられなかったようです。
よって、画像を削除しました。
無学禅師 生誕地 雑草も取り除くと
雑草を刈り取ると適度の住宅地であり、ふさわしい広さの庭とやや伸び放題の植木などが存在する。
庭先には明治時代から存在する柿の木がある。幹まわりの太さが80cmくらいあり、高さは平屋の庇をはるかに超す高さだ。
現在もシーズンを迎えると柿が鈴なりになり楽しみの一つ。
しかも、二種類の柿が実るのである。右側の二枝は少し早く食べられる。丸みのある柿で富有柿を少し小ぶりにしたような姿で結構おいしい種類だ。
本体の種類は筆書きのような姿かたちで、こちらも山柿を少し位大きくしたような姿をしている。
例年二百二十日を過ぎたころ、中にゴマが入り始め、9月の下旬ごろが最盛期。このころになるとゴマもたっぷり入って噛み応えのある美味しい柿が食べられる。私は大好きな柿である。
実際の名前は今も知らないが、子供のころから「かんぼら柿」と呼んで食味を楽しんでいた。
美濃和紙の原料になる「楮(こうぞ)」と「三椏(みつまた)」の栽培
美濃和紙の原料となる、楮と三椏を山裾や作物不出来の畑を利用し、少しばかり栽培をしていたようです。
神洞ではガリ版と呼ばれる鉄筆で文字などを書いて印刷する、謄写版の原紙の製造が盛んでした。
雁皮100% 純雁と呼ばれた製品を家内工業で行っており、分業化でこなしていた。
原料の調達、原料の支度と言うか仕込みと呼ぶのか、大きな釜で雁皮を煮込み、冷まして川さらし、ちり取りへと進む。叩解(こうかい/木づちで原料をたたきこまかくする作業)と原料化へと進んでいく。
一貫作業で行っている紙漉きやはほぼなく、共同で行っていたように記憶している。
紙を一枚づつ漉き、乾燥させて規定寸法に裁断する。
枚数を整え、印刷屋さんへ持ち込まれ、活版印刷により10mmと8mm方眼に印刷される。
刷了後、白色のパラフィンワックスの蝋(ろう)引き加工を行う。
二人でコンビを組み、加熱槽に固形パラフィンワックスを入れ、高温でドロドロに溶かす。
ローラーによってワックスをくぐり、ローラーに昇ってくる蝋を転写する。ロー引き後の未乾燥の内に竹へらでそぎだし左手指に挟み取り出す。
その際、まだドロドロ状のワックスが紙の表面についておりとっても熱い。
指先は赤くなり暑さも慢性化するようである。時には火傷状態にもなる。大変な作業である。