西方への行脚・托鉢し修行の旅へ
無学禅師:江戸時代(徳川幕府11代家斉将軍)の後期から波乱の生涯を送った高僧である
同じ美濃の国武儀郡で生まれ、美濃の臨済宗妙心寺派の清泰寺で僧となった先輩でもある、仙厓和尚(せんがいおしょう)の教えを座右の銘としていたとも伝え聞く。
「気に入らぬ 風もあろうに 柳かな」仙厓和尚
文奕字は無学樹王軒(むがくじゅおうけん)と称する。俗称は関氏(かんし)。
生まれは美濃の国武儀郡神洞村(現在の岐阜県美濃市かんぼら)山田久兵衛の男子(次男)
として生まれる。
文政2年8月1日(西暦1819年 江戸時代後期)
幼少時、同郡長瀬村 武井助右衛門の家に養われ後8歳にして得度し、
清泰寺(現・美濃市)梅山和尚に師事し深源に学ぶ。
16歳 迫間(現・岐阜県関市)大雲寺に掛錫(けしゃく・修行僧が行脚(あんぎゃ)の
途中で他の寺にとどまること)邁翁和尚に見えて専ら禅道を修めた。
19歳大阪に遊化(ゆけ=諸方に出かけて人々を教え導くこと)し、行々托鉢して備前(岡山県)に入り、国清寺目珊に見ゆ。
是より更に、出雲に出で豁陰和尚に依り痛棒(座禅のときに、師が打ちこらす棒。警策(きょうさく))に遇う
天保10年国名ありて他国人の在留を禁ず。
のち長門(今の山口県の北西部に位置する長州)に到り、大照院(山口県萩市にある臨済宗南禅寺派の寺院)に
掛錫(かしゃく=僧堂に籍をおいて修行すること・僧堂に入門すること)
翌、天保12年江戸に赴き、佐藤一斉(美濃国岩村藩出身の著名な儒学者)に就いて儒教を学ぶ。
弘化4年授業の師の寂により帰国し尋ねて再び出でて備前の曹源寺、筑後の梅林寺に歴遊し、大いに梅林寺羅山和尚の教示に服す。
慶応2年法席(修行僧を指導育成する立場)譲られて、梅林寺(福岡県久留米)を董す(取り締る)。
明治7年妙心寺を董し、更に東京大教院に出で、禅宗大教校の校長となる。8年退耕園の後を承けて禅宗9派管長となった。
翌年權大教正に補せられる。
同年、12月9派管長竝に妙心寺住持を辞し、東京牛込の済松寺に退いた。
明治11年7月、再び妙心寺管長となり大教正に進む。明治16年職を辞し、18年重ねて管長に推薦せらる。
翌17年尾張犬山瑞泉寺に退陰す。
明治28年11月 6代管長(蘆) 匡道 慧潭 / 要津軒が示寂され、依ってまた、推されて管長の職に就く。
明治31年(1898年)秋、微恙(軽い病気)あり12月31日妙心寺方丈にて示寂す。
享年80歳
(岐阜県美濃市の資料に記されている)
西暦1819年生まれ 1898年12月に逝去 江戸時代(徳川幕府11代家斉将軍の後期から波乱の人生を生きた名僧である
同じ美濃の国武儀郡で生まれ、美濃の臨済宗妙心寺派の清泰寺で僧となった先輩でもある、仙厓和尚の名言を愛しともに座右の銘としていたとも伝えられる。
僧の格言「気に入らぬ 風もあろうに 柳かな」八十老納 無学別号樹王軒
主観:この時代ならば尚のこと、自由も無く、様々な抑圧や生きることの労苦など向かい風ばかり。
しかし、聞く耳を持ち、柔軟な思考と行うさまは、「おごらず」「高ぶらず」事を処す。己を見失わず、機軸は流されず、まっすぐな生き様を説いて自ら実行していらっしゃる。
無学禅師のご教示・生涯を表し、民衆に生き方を指し示したものと思っています。
時代背景・世相と無学禅師の生涯年表は その3へ続く
文政1818-1831
天保1831-1845・弘化1845-1848・嘉永1848-1855・安政1855-1860・万延1860-1861
・文久1861-1864・元治1864-1865・慶応1865-1868 ・明治1868-1912